「40代からでも転職してよかった!」と人生を再スタートさせたいオヤジのためのリアルなブログ

40代半ばで転職を決意し挫折した男が、もう一度這い上がれるのか。中年男が転職に失敗しないための戦略。ブラック企業入社リアル体験。

ブラック企業への誘い、求人は地獄への招待状

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 失意の無職状態も早2ヶ月が経過し、面接まで漕ぎ着けたと思ったらブラック企業と出口の見えない毎日を送っていました。

 

 そんな時、以前から求人が頻繁に出ていた同じ業界のF社の求人が再び目に留まり、思い切って応募してみました。求人サイトを通して履歴書を送ると、早速面接へと進みました。

 

 F社は以前在籍した、電話営業のJ社と同じ卸売業で、取扱い品目は似通っていました。また、訪問型の営業スタイルをとっているため、自分好みだと前向きな気持ちで面接へ臨みました。

 

 この会社は社長、社長夫人は専務、営業1名、配達員1名という構成で、社屋は一軒家にプレハブを継ぎ足したような建物でした。

 

 そして面接の日。社長は面接が始まるや否や「君、顔が疲れているねえ。履歴書の写真を見ると明るい人物だと思っていたんだが、だいぶ印象が違うよ」と言ってきました。この言葉を聞いたとき「初対面の人間にこんな失礼な言葉を吐くのか」と思いました。

 

 雇用条件は、月額20万円スタート、勤務中の喫煙(休憩時間も)は発覚次第解雇、業務量は多いが残業を前提とした動き方はしないようにと、高圧的な印象を受けました。社長はどこかピリピリとした雰囲気を漂わせていたのです。冗談などは決して言ったりしないキャラクターに見えました。

 

 しかし、この時の私は無職状態を長引かせたくなかったため、業界での経験をアピールしました。すると「君のようなメーカーでの営業経験と、前職のJ社で取り扱っていた製品は当社とほぼ同じなので、求める人材としてはあなたのような経験がある人が理想なんだよね」と言われました。

 

 そして、「精査のうえ選考通過すれば連絡します」との事で、面接は終了しました。

労働基準法違反で書類送検、3ヶ月の指名停止処分を受けた会社の面接

 TA社の面接当日まで、ネット情報を確認したところ散々な評判でしたので、前向きな気持ちではありませんでしたが面接に臨みました。

 

 面接担当の方は私の履歴書を見て「東京の〇〇大学ですか、当社には東京の大学出身者がいないので珍しい人が受けにきたという印象です」それから会社の歴史や取扱い品目などについて約90分に及ぶ説明を受けたのち、「私の方から社長へ推薦したいので、このまま待ってくれますか、今日もう少し時間良いですか」との事でした。しかし、1時間ほどと思っていたので予定がある旨お伝えし、その日は帰らせてもらいました。いきなりその場で2次面接を受けてもらうつもりだったようです。

 

 面接担当の方より「今日は残念です。ぜひ社長に合っていただきたかった」「では後日、2次面接の日程を連絡します」と怖いくらい話が進みましたが、私の転職履歴については何一つ聞かれることはありませんでした。

 

 福岡の地場では業界の知名度は高いようでしたが、あらためて評判を確認したところ、会社はワンマン経営で昭和の社風。退職金、残業代無し、自家用車推奨で手取りは少なく、昇給、ボーナスも殆ど無く、ひどい人は1日20時間労働を強いられているとの情報を見ました。

 

 そして4日後辞退を申し出たところ「こちらの説明が不足していたのか、思いが伝わらなかったようで申し訳ない。ご縁を頂けず残念です」との返事がありました。

 

 決定的な辞退理由は、4ヵ月前に福岡市労働基準監督署より労働基準法違反の容疑で罰金の略式命令、指名停止処分を受けていた事実が判明したからです。

 

 同社は労使協定を届け出ずに、男性社員に時間外労働を最大で1日14時間、月に158時間に及んでいたそうです。ネット情報以上にひどい現実がありました。

 

 ネットで会社の評判に書かれている情報はすべて鵜呑みにするのも危険ですが、その中でも真実はありますので、ブラック企業に間違っても入社しないように情報の精査はしっかりと行うことを心掛けたいものです。

4回目の転職活動、転職サイト、ハローワークでも仕事が見つからない

 四日でリタイアしたT社を去り、再び転職活動がはじまりました。しかし、履歴書を出せども面接にすら呼ばれない日々が続きました。

 

 そこで、今回から「福岡中高年支援センター」という機関を利用することにしたのです。このセンターでは、おおむね40歳からの中高年求職者を対象に職業紹介を実施しています。また、就職活動のノウハウを身に着けるためのセミナーや就職活動に不安を抱えている方に対する専門家によるアドバイスがありました。

 

 しかしこのような機関へ通っても、いい結果は得られませんでした。

 

 この間にはTA社という会社との面接が行われたのみでしたが、ネットを見るとこの会社の評判は最悪だったのです。

四日でのリタイア、四度目の無職

 開始早々二日目で仕事に見切りをつけたものの、今回の話は母の知人から紹介を受けた仕事だったので、それなりの逃げ出す理由を考えなければなりませんでした。四日目の朝、現場へ行く前に社長に「この仕事は自分に合いません、今の自分では危険も多くとてもやっていけない」と言いました。社長からするとあまりにも唐突で、「危険があることに気付いたことがこれからの経験になるんだ、もうちょっと頑張ってみなさい」と言われましたが、私の気持ちの方は完全に切れていたため、押し切るしかありませんでした。

 

 押し問答が続いた上に、もう腹が決まったのならしょうがない。と認めていただきました。その日は今日から始まる新しい現場で仕事を行い、現場の仕事終了後に荷物や道具の片づけをして最後の日は終了しました。

 

 この四日間の労働に対する対価は支払われておりませんので、退職届も書面を交わすこともなく終了しました。この四日間の出来事は私の履歴書には記載していません。入社に対して作業着や車の準備、十分に時間給以上の損害を与えましたので、タダ働きは自分でも納得していました。

 

 これまで生きてきて、学生時代のバイトも含め四日で辞めるという行為は初めてだったので、今でもT社の出来事は恥ずかしく、情けなかった出来事でした。

 

 去り際現場作業の若者に、「マッサンさん、辞めるって聞きましたけど、子どもはまだ1歳でしたよね。どうやって子どもを養うの」と聞かれましたが、情けなくも答えることはできませんでした。

 

 早くもまた無職に舞い戻ることになったのです。

土木業界わずか二日で、もうこの仕事は無理だと判断する

  一日目の仕事が終わり家に帰り着くと、妻や母は泥だらけの私の格好を見て驚いていました。正直「どえらい仕事を選んでしまった」というのが正直な感想でした。

 

 二日目も同じく泥だらけで仕事をし現場からの撤収の際、掘削重機のドリルを積み込んだ4tトラックを一人で運転し会社まで帰ってくれとの指示。その車は4tのワイドで、ほぼ10tトラックと幅が同じでした。トラックを運転したこともない私が、そんなドリルをのせたトラックを運転できるわけがありません。幸いクラッチ操作が難しく、動かすことが出来なかったので、正直に「運転したことがないので無理です」と申告しましたが、もしエンジンがかかっていたら大事故を起こしていたに違いありません。

 

 家に帰り妻に報告したところ、今日の出来事だけに関わらず何か大きな事故を起こす可能性があるなら本当はやってほしくないと言われました。

 

 掘削現場は常に土埃、砂埃が舞い、コンタクトレンズの私の目の中に砂の粒が常に入りこみ、目が痛くて開けられないので、とにかく仕事どころではありませんでした。

 

 あとはお目付け役の先輩はすでに70才は過ぎているようですが、指示される言葉が全く理解できませんでした。専門用語もさることながら、九州の方言と地盤の掘削音で声がかき消されるため、とにかく指示が聞き取れません。

 

 極めつけは、現場へ移動の道中1時間ほどの時間で真横で15本くらいタバコをふかし続けられます。私も喫煙者ですがこんなすさまじいチェーンスモーカーは見たことがありませんでした。もう限界でした。

 

 そして、私は二日目が終わった時点で「この仕事は無理だ」と早々に見切りをつけることにしました。 

地盤改良工事は泥まみれ、セメントまみれ

 いよいよ仕事がはじまりました。地盤改良でも私がこれから携わるのは、柱状改良工法というものでした。重機で地盤をドリルのようなもので垂直に掘りながらセメントを注入します。

 

 軟弱な地盤の現状の土と混ぜ合わせて撹拌して土の中へ注入していきます。この地盤へセメントを流し込んでいくために、プラントが必要で、ここにセメントと水を計量してセメントミルクといった地盤改良材をミキサーのようなもので練るのです。このプラントの周りは常にセメントとと水を混ぜ合わせる為、周辺は泥とセメントの水たまりが常にできています。

 

 作業が終わるとセメントが固まらないよう地盤改良重機のドリルやスクリューに付着したセメントや泥のヘドロをきれいにつまらないよう水で洗い流すのです。現場がドロドロ、ベトベトで、常時長靴、皮手袋をしておかないと気持ち悪くて仕方ありません。

 

 セメントミルクが長靴や服に付着すると、すぐに固まってしまいます。私のような作業に慣れないうちは、たくさん浴びてしまうのでカッパが必須だと思いました。しかし、これから夏に向かうというのに炎天下の下でカッパを着て土木作業なんかしたら、滝のように汗が噴き出るのだろうなと思いました。

 

 こうして、泥とセメントまみれの一日目は終了しました。 

J社との別れ、安住の職業を求めて新たなる旅立ち

 J社の退職当日、社員一同を集め社長より挨拶がありました。「マッサンが当社に入社したとき、いい人物が来てくれたなあというのが感想でした。最近では新規も取れるようになって、これからというときに今回のことは残念だが、やりたいことがあるとの本人の意思だから、我々も万歳してマッサンを送り出そうではないか」そして社員一同で「マッサンの将来にバンザーイ!」と花束と共に送り出してくれたのです。

 

 わずか10ヶ月で去ることになった私に対し、ここまでしてくれたことは一生忘れられない出来事となりました。この時の判断が間違っていなかったと胸を張って言えるよう次の会社で頑張る決意をしました。

 

 そして4月に入り、T社の勤務初日の前日に従業員さんたちへの挨拶と翌日より通勤の足となる車の持ち帰りのため、会社へ行きました。自家用車は妻が息子の保育園への送迎と通勤に使用する為、社長より会社に置いてあるボロボロの軽ワゴンを当面借りることになったためです。

 

 次に会社の下見をすると、事務所のような社屋は存在せず、作業者の詰所があるだけでした。これまでの会社勤務とはまるで事情が違っており、詰所はプレハブ小屋、トイレは屋外の簡易汲み取り式便所。敷地には掘削に使用するドリル、重機で埋め尽くされていました。

 

 職場環境に戸惑いはありましたが、いよいよ明日から気持ちを真っ新にして頑張るぞと決意をしたのでした。

 

 そして、勤務初日を迎えました。