「40代からでも転職してよかった!」と人生を再スタートさせたいオヤジのためのリアルなブログ

40代半ばで転職を決意し挫折した男が、もう一度這い上がれるのか。中年男が転職に失敗しないための戦略。ブラック企業入社リアル体験。

これで最後に、人生3度目の退職

 T社への入社決意が固まりました。妻は賛成してくれませんでしたが、もう私を止められないことがわかったのか、そこまで決意があるのなら頑張ってみたらと言いました。

 

 そしてJ社へ退職の意思を伝えました。引き留めもなく退職は速やかに受理されました。今回は将来を見据えて資格取得を目指すことも伝えていたため、嫌になって辞めるなどの投げ出し退職ではないことを多少は汲んでくれていたようです。

 

 電話営業の成果は8社に対し新規口座が開設できたこと、その中でも大手物流会社との取引は、この3月から製品納入がスタートしたところでした。3月の新規ノルマは90万円に対して84万円と達成率は94%ともう少しで予算達成だったのです。

 

 このことは評価され「せっかく順調に売上作ったのに、これからというときにもったいないねえ」また、反対に「1、2年で辞められることが会社にとって一番迷惑なんだけどねえ」などの意見もありました。

 

 そして、一番申し訳なかったのが役員のKさんでした。私の経験を評価していただき、「この会社にぜひ定年まで勤めてください」と言われたことを思い返すと、心が痛みました。最後に「彼ら(他の社員)とは同じ釜の飯を食った仲間達だから、辞めても気にせず誘い合って飲みに行けばいいよ」とも言ってくれました。

 

 振り返れば、J社の入社試験がボロボロだったにもかかわらず、7、8人受験した中で私が選ばれたのは、Kさんが父親でもあった社長へ私を採るよう強く進言をしたからでした。

 

 人材としての評価を最優先したことで、この時試験を担当した経理のMさんは、後日談で「社長にはマッサンさんの試験の点数(合格ラインに達していなかった)は見せられなかったんだよ。Kさんのマッサン推しがすごかったからね(笑)」

 

 結果、Kさんは私の資質を見誤ったということになってしまったのに、あのような言葉をかけられるとは、ホントにKさんにはいまだ、合わす顔がありません。

 

 

 そして、いよいよJ社の退職当日を迎えました。

地盤改良工への転身、休日半減と毎朝5時半起床に最後まで悩む

 T社の面接がはじまりました。社長は「45才か、だいぶ歳くってるな」「あと10年早かったらなあ」と言われましたが「うちに来たら、2~3年後には毎月手取り最低25万は持って行ってもらうおうと思っている」とのことでした。

 

 そして、具体的な仕事内容について説明がありました。仕事の内容は地盤改良工事で、建設予定地の地盤が弱いところにコンクリートを柱状に何か所も流し込み、地盤を固めるというものでした。

 

 それに関わる機械設置、重機の操作、現場管理で最低限5つ以上の資格が必要になるとのこと。それには現場を1年以上経験し、3年後には現場の管理ができる、5年後には一つの現場の切り盛りを任せることが出来るように、資格取得と並行して現場で技術習得をする必要があるとのことでした。

 

 勤務時間は会社に7時に集合し現場へ出発、8時には請負現場の仕事を開始し、17時までの勤務が基本とのことです。この仕事の宿命とはいえ朝が早いな、というのが懸念点でした。会社までは車で1時間かかるので、家を6時には出発する必要があり、毎朝5時半の起床を余儀なくされるわけです。

 

 営業マン時代は遠方へ出張の際、朝一の飛行機に乗るため5時台に起きて行くことはありましたが、あっても月に1、2度でしたので、これから毎日この生活リズムになることに相当な覚悟が必要でした。

 

 そして、一番の懸念要素は、土曜日が休日ではないこと。日、祝、年末年始合わせても休日は年間70日ほどしかありません。最初にいたG社は年間120日以上、有給は10日以上取得していたので、その時と比べれば休日がほぼ半分減るということになります。これは自分にとっては一番きついな、という印象で最後まで悩むところでした。

 

 この頃、まだ1歳にも満たない息子がいたので、こういう生活になると、日曜日はクタクタになり、休日に遊びに連れて行ったりする余裕が生まれるだろうか、妻に子育ての負担を多くかけてしまうのではないかと不安に駆られました。

 

 しかし、そんな邪念を振り払い、「新たな自分に生まれ変わらなければ先へは進まないぞ」と言い聞かせ、最後の転職への覚悟を決めたのでした。

妻の忠告を無視、土木業界への転身が転落のはじまり

 母からT社の話を聞き、これでJ社を辞める理由ができたと思いました。土木業界と聞いてもちろん戸惑いはありましたが、この先の安定を考えれば資格しかないと思い、社長との面接を進めてもらうよう頼みました。

 

 週末で熊本の実家へ帰省中の妻に電話で事情を説明したところ、そこまで大事な話を私と母で決めてしまったことには賛成できないとの意見でした。

 

 しかしこの時の私は聞く耳持たず、「電話営業で毎日精神的に追い込まれているときに、絶好のタイミングできた話を逃したくはない」「自分には資格が必要だ、資格を取るということに反対するというのか」「面接の話はもうお願いしている」「次に行く会社で絶対最後にするから」と自分の決めたことに口を挟むなと言わんばかりの口調だったと記憶しています。

 

 最初の転職の際にも、妻のアドバイスを無視して暴走した結果が現在の転落人生なのに、またこの時も同じ過ちを繰り返してしまったのでした。

 

 

 そしてT社の社長との面接の日が訪れました。

充足感は満たされず、再び転職の道へ

 J社での勤務も7ヶ月を過ぎ、新規契約は増えてきましたが、10年後の自分の姿が想像できず、モヤモヤとした日々が経過しておりました。

 

 電話だけでは、一時的に商品は売れても継続的にコミュニケーションをとることが自分にとっては難しかったからです。

 

 会社の諸先輩方は20年前から今日まで、電話営業で11億という数字を作ってきたのですからすごいなと正直に思っておりました。電話営業という手法が自分には合わなかったとしか言いようがありません。

 

 J社の従業員はどこか家族的な雰囲気もあり、いわゆる嫌な人間というのも存在しなかったので人間関係ではほとんどストレスはありませんでした。今振り返ればこのJ社に早々と見切りをつけてしまったのが、その後の悪い流れを引き寄せたと思うことはしばしばありました。せっかく評価してもらった会社に1年も経たずに自ら背を向けたのですから。

 

 評価と期待をしてもらった会社だからこそ、自分に合わないという理由で辞めますとはさすがに言えませんでしたので、何とか踏ん張っていこうという気持ちも半分は残っておりました。

 

 そして9ヶ月が経過したある日、降って湧いたような転職話が転がり込んできたのです。

 

 その話の出処は私の母でした。J社に転職してからも、常々から電話営業が自分には合っていないことなどを妻や母にも愚痴っていました。

 

 ある日母が福岡で知り合って間もない友人に、息子である私の仕事の話をしたところ、母の友人が「私の従弟がT社という建築会社を経営しており、資格を取らせて後継者を育てたいと言っていたので、45歳でも大丈夫か聞いてあげる」と言いその結果、社長は少し思った年齢よりも上だが一度面談してもいいよとの返答でした。

 

 そして母は早速、私にその話を持ってきたのでした。

 

 

電話営業、まるでバナナのたたき売り

 電話営業を始めて半年が経過したある日のこと。物流会社の大手に営業電話をしたところ、運よく商品購買の統括に電話がつながりました。

 

 この物流会社は日本全国に支店があり、国内でも5本の指に入るほどの大手でした。その会社の統括が値段を見てみたいとのことで、早速見積もりを提出したところ好感触でした。

 

 サンプル品を送り品質も問題なしとの結果で、統括より「使用頻度の高い関東の物流倉庫の消耗品を切り替えたい」との返答。ただし消耗品は数ヵ月に一度価格の変動を避けるためまとめて購入をしているとのことでした。次の購買月は来年の3月でその時に発注しますとの返答をいただきました。

 

 9月に初めての商品受注があり、その後もひと月に1~2社のペースで新規口座を開設し順調に前進しておりました。今回の大手の口座開設はうれしくもありましたが、ふと冷静になって考えてみました。

 

 何社か契約が取れたのは、商品が他社より安かったからにほかなりません。比較してはいけないのですが、最初の会社のG社時代は「マッサンさんから商品を買いたい」という顧客も少なくありませんでした。

 

 値段でひっくり返したのだから、他の業者がさらに安い価格提示をすればすぐに変えられてしまうということです。商品は売れればそれでいいのか、自分の中では心の底から充実した営業活動を行えているとは思えませんでした。

 

 これでいいのか、10年以上も同じことを続けられるのかと再び自問自答を始めました。気づいたら、再び求人に目を通し始めていたのでした。

 

電話営業、4ヶ月目にして初めての商品受注に涙

 電話営業を開始して4ヵ月目に初めての手応えでした。全体的に安いと言われた消耗品の見積もりでしたが、使用量の一番多い商品はサンプルを使っていただいた結果、耐久性が他社品より弱いという理由で切り替えには至りませんでした。

 

 今回対応した資材仕入担当者は、「初めて見積もり出させた段階でこのような安い値段を出してくれた業者は初めてなので、メインではないが少量使用のアイテムだけでも切り替えたい」と仰っていただき「とりあえずは1ケースで申し訳ないが発注書を入れます」と初の商品受注に漕ぎ着けたのでした。

 

 新規顧客のため、口座開設の申請を会社にしたところ、社員一同より「おめでとう!」とみんなで今回の初注文を喜んでいただけました。なかなか注文を取れない私を他の社員さんたちは心配していたようです。ある女性社員さんからは「マッサンさんは毎日とにかく電話していたんだもの、注文は必ずとれると思っていたわ」との言葉もかけてもらいました。

 

 初注文の取れた9月の売上は3,120円と新規目標金額30万円の1%の達成率となりました。この頃から別のところからも見積もり出した結果、切り替えたいとの会社が数社に増え、続けて新規口座開設となり10月の売上はは151,200円となりました。最初に注文してくれた会社も「子会社の方に紹介したら使ってくれることになったよ」と非常に良い流れになってきたのでした。

 

 このような出来事を通して、最初は売れる気がしないと思っていましたが、毎日毎日継続することで光明も見えてくるものだとこの時の経験で学ぶことが出来ました。

 

 そして、年末の12月には物流会社の大手の契約に成功することになったのです。

 

電話営業、拒絶反応多く苦悶の日々

 それから数週間経過しても、見積もりすらさせてくれない会社が多く、お断りの常套句として「決まった業者から買っているので結構です」との返答ばかりでした。「見積もり見るだけならいいよ」と言ってくれた会社に見積もりが出来たとしても、次に電話すると「まだ見てない」「担当者は外出中です」が多く、取次ぎもなかなかできず、思うように前へ進みませんでした。

 

 ある日社長に相談したところ、「規模の大きい会社から攻めていくこと」「断られてもまた電話すること」とのアドバイスがありましたが、私の中ではそのようなことを忠実に行う精神力はありませんでした。   断られているのに電話したら、嫌がらせ以外の何者でもないとの個人的な考えがありましたので、断られた会社へ電話することは自分のポリシーとして行いませんでした。

 

 このパターンを毎日繰り返していましたが、商品が売れる気配は、まったくありませんでした。6月からスタートして、7月、8月と3ヵ月経過しても新規売り上げは0円を更新していくのでした。

 

 年度末である翌年の3月末まで新規売上のみの目標金額は10万円からスタートし翌月20万円、翌々月30万円と10万円ずつ加算していき、最終的には年間550万円の新規売り上げ予算が課せられていたのでした。

 

 しかし、3ヵ月を終わって売上は0円。心は折れかけていましたが、それでも電話を毎日をかけ続けておりました。このまま何も残さぬまま辞めたりするのだけは嫌だと思い歯を食いしばって頑張ってみようと思っていました。

 

 9月に突入したある日のこと、いつものようにリストアップした会社に売リ込み電話をしたところ、一度見積もりのFAXをくれとのこと。翌日仕入れ担当者に見積もりはどうでしたかと聞くと「安いね。他の商品の価格も見てみたい」と言うではないですか。これはチャンスと月に何十万円も仕入れている消耗材の見積もりも見てくれることになりました。

 

 4ヵ月目で初めての手応えを掴みかけたのでした。